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4、五十五年梦,桔梗花一期之四 ...
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●謀反
1582天正十年
1月20日吉田兼見と坂本城小天守で茶湯、夕食を共にする。
【1月20日光秀与吉田兼见在坂本城的小天守上开了茶会,并共进晚餐。】
3月信長の甲州攻めに従う。
【3月光秀随信长攻击甲州。】
5月14日安土に来る家康の饗応役を命じられる。
【5月14日光秀接到负责招待即将来安土的(德川)家康的命令】
(以上考证自《兼見卿記》)
秀吉救援のため中国出陣を命じられる。
【之后光秀接到了救援秀吉准备出征中国(非我国,乃毛利领土)的命令】
5月17日坂本城に入る。
【5月17日光秀进入了坂本城】
5月26日中国出陣準備のため坂本を発ち亀山城に入る。
【5月26日为做出征准备,光秀自坂本出发进入龟山城】
5月28日愛宕山にて一晩参籠し、籤を何度もひく。
【5月28日,光秀在愛宕山算了一整晚的卦,抽了N次签】
5月29日西坊威徳院で百韻連歌を興行して神前に捧げ、愛宕山を下って亀山に戻る。
【5月29日在(光秀在愛宕山)西坊威德院举办百韵连歌会奉献神明,(之后)下愛宕山返回了龟山城。】
6月1日夜、重臣と談合して信長への叛意を打ち明ける。亀山城を出陣。
【6月1日深夜,光秀招来重臣商议,毫不隐瞒的说出了想要谋反信长之意。(之后)于龟山城出兵。】
(以上考证自《信長公記》《老人雑話》《蓮成院記録》《当代記》)
6月2日未明、桂川を渡河。午前6時頃本能寺の四方から乱入、信長自害。別働隊が妙覚寺に織田信忠・村井貞勝らを襲い、信忠らが隣の堅固な二条新造御所に移る。
午前7時頃、誠仁親王の二条御所退去後に戦闘始まる。信忠らの抵抗激しく、隣の関白近衛前久邸の屋根から狙撃。信忠自害。
午前9時頃、洛中の落人狩りを始める。
午後1時頃~3時頃近江に向かう。各地の大名諸侯に書状を発する。
【6月2日黎明,(明智军)由桂川渡河,早晨六点左右从四面杀入本能寺,信长(被迫)自杀。别动队于妙觉寺袭击了织田信忠与村井贞胜,信忠带兵移至附近比较坚固的新建成的二条御所。早上7点左右,诚仁亲王从二条御所中离去,战斗开始。信忠拼死抵抗,附近的关白近卫前久府邸也被袭击,(之后)信忠自杀。早上9点左右,(明智军)开始搜查落网之鱼。午后1点至3点左右,近江全归明智家。(光秀)向各地大名诸侯发送了书信。】
(以上考证自《兼見卿記》、《多聞院日記》、《当代記》、《川角太閤記》、《武家事紀》、《歴代古案》、《信長公記》、《老人雑話》、《本城惣右衛門覚書》)
6月3日細川藤孝・忠興父子が光秀との義絶を表明。
【6月3日,细川藤孝与忠兴父子表明与光秀恩怨义绝。】
6月4日瀬田橋復旧。佐和山城、長浜城を攻略、近江を平定。
【6月4日濑田桥修复,光秀攻下了佐和山城与长滨城,平定了近江。】
6月5日安土城に入城。金銀を家臣に分け与える。
【6月5日光秀进入安土城,将金银财物分发给家臣。】
6月7日吉田兼見が誠仁親王の御使として安土城に下向、京都の治安維持を厳命、下賜品を授ける。
【6月7日吉田兼见作为诚仁亲王的使者前往安土城,(表彰光秀)为维持京都的治安(所作出的努力),并向光秀授予(诚仁亲王所赠的)赐品。】
6月9日午後2時頃、摂津出陣のため上洛。吉田兼見が公家衆と共に白川口に出迎え、兼見宅を訪れる。正親町天皇と誠仁親王に銀子五百枚、京都五山と大徳寺に百枚ずつ、兼見に50枚を贈る。
【6月9日午后2时左右,光秀于摄津出兵上洛。吉田兼见与朝廷的公家们在白川口(皇宫附近)迎接,光秀到访了兼见府邸。光秀献给正亲町天皇与诚仁亲王银币五百枚,京都五山与大德寺各百枚,兼见五十枚。】
細川父子を説得するため自筆書状を発する。
【(之后)为了说服细川父子,光秀发了一封亲笔信。】
夕食時に連歌師の绍巴・昌叱・心前らと兼見が相伴する。食後、下鳥羽に出陣。
【晚饭时与连歌师(里村)绍巴和兼见相伴,饭后,从下鸟羽(应该是离宫之一)离开。】
兼見が参内して誠仁親王に拝謁、光秀からの銀子五百枚を渡し。
【兼见拜见了诚仁亲王,献上光秀所奉的银币五百枚】
6月13日午後4時頃山崎で戦闘が開始される。斉藤利三らが奮戦したが兵力差から総崩れになる。一旦勝龍寺城に退去後、夜陰に紛れて脱出するが、近江坂本城へ向かう途中の小栗栖付近の竹薮で土民に襲撃され深手を負い、溝尾庄兵衛に後事を託して自刃。光秀を介錯した庄兵衛は首級を鞍覆に包んで藪中の溝に隠した。
【6月13日午后4点左右,山崎之战开始。期间因为齐藤利三的勇猛奋战,(秀吉方)险些全军崩溃。之后光秀败走胜龙寺城,趁夜逃出,在回近江坂本城的路上,小栗栖附近的竹林中,被农民袭击受到重伤,光秀向沟尾庄兵卫托付后事后自杀,庄兵卫在为光秀介错后,将他的首级用鞍覆(应该是铺在马鞍上的布?)裹着藏在了草丛中的沟里。】
(以上考证自《兼见卿记》《多闻院日记》《莲成院记录》)
•本能寺事变前有个插花介绍•
急襲前夜、京都の愛宕山で連歌師の里村绍巴らと愛宕百韻(連歌)を行ったが、光秀は最初に「時は今雨が下しる五月かな」という前句をつけた。
【急袭前夜,在京都的爱宕山邀请连歌师里村绍巴举办了爱宕百韵的连歌会,不过,光秀最初写下了「时在今日,这细雨绵绵的五月天」的前句。】
これは、時=土岐氏(光秀の出自)、雨が下=天下ということで、織田家に滅ぼされた土岐氏の恨みを晴らし、信長に替わって天下を取る、との決意を詠んだとされている。
【于是,时(的谐音)等于土歧氏、雨が下(的谐音)等于取得天下,被认为是吟出了土歧氏的恨意与消灭织田家并代替信长取得天下的决心。】
明智光秀——五十五年梦,桔梗花一期
第一期•完
第二期预告:
明智光秀几场经典战役及能力评析。
著名的明智家中军法。
明智光秀逸话集合。
第一期所参考、引用的史料为:
《明智军记》 二木谦一监修新人物往来社
《明智光秀》 高柳光寿著作 吉川弘文馆
《明智光秀》 小和田哲男著作 PHP研究所
《明智光秀のすべて》 二木谦一编新人物往来社
《明智光秀と丹波・亀冈》 亀冈市文化资料馆
《明智物语(内阁文库蔵本)》 関西大学中世文学研究会编和泉书院
《光秀行状记』明智滝朗中部経済新闻社
丹波篠山とっておきの话3《続戦国动乱の时代-波多野氏と八上城信长の野望、明智の「丹波攻め」-》 梶村文弥著作 あいわ书房
《美浓国诸旧记》 から巻之六「明智城の事」黒川眞道编集国史研究会
及部分《兼見卿記》、
《多聞院日記》、
《当代記》、
《川角太閤記》、
《武家事紀》、
《歴代古案》、
《信長公記》、
《老人雑話》、
《本城惣右衛門覚書》