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3、五十五年梦,桔梗花一期之三 ...
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●朝倉への随身
1562-永禄五年
朝倉義景の領国越前に入り、称念寺門前に居住する。
9月20日加賀一向一揆との戦いで戦功を上げる。
【1562年(光秀)进入了朝仓义景的领土越前国,在称念寺的门前居住。9月12日参加平定加贺一向一揆之战并立下战功。】
1563永禄六年
4月19日義景に砲術の腕前を披露して激賞され、鉄砲寄子100人を預かる。
【1563年4月19日,(光秀)在义景面前显示了使用铁炮的实力,受到了赞许,并得到了铁炮队一百人的赏赐】
1565年(38歳)永禄八年
松永久秀と三好三人衆が13代将軍義輝を暗殺。
【松永久秀与三好三人众暗杀了第十三代将军足利义辉】
義輝の弟覚慶(足利義昭)の身も危ないことから、細川藤孝(幽斎)が覚慶(足利義昭)をかくまい、将軍家復興のため朝倉義景を頼ったことから光秀と再会。
【认为义辉的弟弟(一乘院)觉庆也就是足利义昭处境很危险,细川藤孝将他藏匿起来,并且为了将军家的复兴求助于朝仓义景,(这时)与光秀再次见面。(出自《细川家记》)】
●信長への随身
1568永禄十一年
7月25日光秀・藤孝らの手引きで足利義昭と信長が美濃立政寺で会見。
【7月25日,在光秀与藤孝的牵线下,足利义昭与信长在美浓的立政寺见了面。(考证根据为《信长公记》《多闻院日记》《细川家记》)】
足利義秋の推薦で織田信長に出仕。
【(光秀)在足利义秋(之后改名为义昭)的推荐下侍奉织田信长。(出自《细川家记》)】
8月信長に従い、近江観音寺城攻めを後詰。
【8月,(光秀)跟随信长攻打了近江的观音寺城。】
9月上洛、義昭や公家衆との交渉役となる。
信長に担がれて上洛した足利義昭が15代将軍の座に就く。
(信長の上洛戦)
【9月上洛,(光秀)成为代替义昭与朝廷众人谈判的使者。在信长的协助下,足利义昭成功上洛并就任第十五代将军】
信長が京都を離れる際は、村井貞勝とともに京都に残り政諸務を行う。
【信长离开京都后,(光秀)与村井贞胜并为京都奉行,处理政务。(《言继卿记》)】
1569永禄十二年
正月5日三好三人衆が義昭を京都本圀寺に急襲、光秀が細川藤孝らと共に六条にて撃退した。)
【1569年正月5日,三好三人众急袭义昭所在的本圀寺(谁告诉我那个是什么字???),光秀与细川藤孝一起在六条院附近击退之。(本段史料取自《汤殿上日记》《言继卿记》《多闻院日记》】
1570-元亀元年
正月23日義昭が信長による「五ヶ条の条書」を朝山日乗と光秀の仲介により認める。
【正月23日,义昭看到了由朝山日乘与光秀转交的信长所写的《五条书》(就是那个有名的五条限令)(出自《東寺百合文書》)】
秀吉や池田勝正とともに金ヶ崎退口の殿を務める。
【光秀与秀吉和池田胜正一起担任了金崎撤退的殿后任务。(考证根据:《武家雲箋》《言継卿記》)】
長男・十五郎(光慶)が生まれる。
【长子明智十五郎光庆出生】
1571年-元亀二年
《5月信長が長島一向一揆征伐を開始》
【五月信长开始与长岛的一向一揆作战】
7月近江宇佐山城に在城、比叡山焼き討ちに向けて坂本近在の土豪を懐柔する。
【七月光秀在近江的宇佐山城,并为比叡山的征讨做准备,拉拢了坂本城附近的豪族。】
9月12日比叡山焼き討ち。その功で近江志賀郡を与えられ、坂本に築城開始。
【9月12日光秀火烧比叡山,因为这个功劳,被封了近江志贺郡,开始在坂本建筑城池。】
9月24日摂津高津に出陣。義昭に致仕を願い出て、名実共に信長の家臣となる。
【9月24日光秀出阵摄津高津,并向义昭请求出奔,成为名副其实的信长家臣。】
(以上考据为《信长公记》《言继卿记》)
1572元亀三年
閏正月6日坂本城築城中に吉田兼見が来訪。
【闰正月6日,坂本城还在筑建之中,吉田兼见来访。(吉田兼见:朝中的公卿,与光秀是好友。)】
3月信長に従って志賀郡の浅井方である木戸・田中両城を攻囲。
【3月跟随信长围攻了属于浅井家治下志贺郡的木户、田中两城。】
4月三好義継と松永久秀が織田方畠山昭高の家臣安見新七郎を河内交野城に攻めたので救援軍に加わる。
【4月三好义继与松永久秀攻击了织田家的河内交野城,(光秀)接到畠山昭高的家臣安見新七郎的求救后派遣了援军。】
《7月信長、浅井氏の小谷城を攻囲》
湖上より浅井領を焼き討ちし、竹生島を銃撃する。
【7月信长围攻了浅井(长政)氏的小谷城,(光秀)自湖上火攻浅井领地,并炮击竹生岛。】
近江国の坂本城主に。
織田家家臣の中では新参でありながらも、一番の出世頭であった。
【近江国的坂本城建成,光秀成为城主。(光秀)在织田家臣中属于新人,却是第一个如此被重用的。】
●丹波方面司令官
1575-天正三年
正月丹波平定を命じられる。
【正月,(光秀)接到平定丹波的授命。】
4月河内高屋城に三好康長を攻める。
【4月(光秀作为援军支援)河内高屋城攻击三好康长】
7月3日信長の奏請により、九州の途絶えた名族「惟任」の名字と「日向守」を与えられる。
【7月3日信长向朝廷奏请,将九州的名门望族姓氏‘惟任’与‘日向守护’的官职赐予了光秀】
8月越前一向一揆を平定に参加。
【8月光秀参加了平定越前一向一揆的战斗】
9月丹後に出陣。但馬に迂回して、11月電撃的に丹波国黒井城を攻囲する。
【9月光秀自丹后出阵,迂回于但马县,11月闪电般的攻击了丹波国的黑井城】
1576年-天正四年
正月黒井城を攻囲中に背後の八上城にいる波多野秀治が寝返ったため敗走。
【正月光秀进攻黑井城时,遭到从背后八上城中出兵背叛的波多野秀治,因此失败撤退。】
2月18日丹波攻略を再開。
【2月18日再次展开丹波攻略】
5月23日石山本願寺攻めの陣中で病に罹って帰京。
【5月23日光秀参加了(织田信长发动的)对石山本愿寺的侵攻,之间因患病返回京城。】
6月26日信長が病の光秀を見舞う。
【6月26日信长慰问了生病的光秀】
11月光秀の病を貰い、妻熙子病没。
【11月因(照顾)光秀被疾病所传染,妻子熙子病故。】
(以上考证自《信长公记》《光秀行状记•中部经济新闻社》《明智光秀•高柳光寿著•吉川弘文馆》《明智光秀•小和田哲男著•PHP研究所》)
1577天正五年
2月信長に従い、紀州攻めに出陣。雑賀に鈴木孫市を攻囲する。
【2月光秀追随信长,出兵攻击纪州,围攻了铃木孙市的杂贺城。】
10月松永久秀が二度目の謀反を企てたため、松永方の海老名氏が籠もる大和片岡城を攻め、落城させる。
【10月,松永久秀策划了第二次谋反,(光秀)攻落了松永手下海老名氏镇守的大和片冈城。】
10月10日信忠の大和信貴山城攻めに従う。奇しくも久秀がかつて大仏殿を焼いた日に松永久秀父子自害。
【十月十日光秀跟随信忠(织田信长之子)出征大和信贵山城。出乎意料的,松永久秀放火烧城,松永久秀父子自杀。】
10月内藤氏の丹波亀山城と丹波八木城を奪取、亀山城を丹波攻略の拠点とする。
【十月光秀夺取了内藤氏(驻守的)丹波龟山城与丹波八木城,将据点移动到了龟山城中以便进行丹波攻略。】
宇津氏の丹波船坂城、籾井氏の丹波籾井城を落城させる。
【同时,光秀攻落了宇津氏的丹波船坂城与籾井氏的丹波籾井城。】
1578天正六年
7月丹波園部城の荒木氏綱を下す。
【7月丹波园部城的荒木氏纲成为光秀下手】
5月2日秀吉救援のため丹波から明石に出陣。
【5月2日,光秀为了救援秀吉,从丹波的明石出征。】
5月4日さらに姫路北部の書写山に陣を張る。
【5月4日,(还是救援秀吉,光秀在)姬路北部的书写山摆阵。】
8月娘の玉子(細川ガラシャ)が勝龍寺城の細川忠興に嫁する。
【8月光秀的女儿玉子嫁给了胜龙寺城的细川忠兴】
11月摂津有岡城の荒木村重を攻撃。
【11月光秀攻打了摄津有冈城的荒木村重。】
(以上考证自《光秀行状记•中部经济新闻社》《明智光秀•高柳光寿著•吉川弘文馆》《明智物语(内阁文库蔵本)》•関西大学中世文学研究会编•和泉书院)
1579天正七年
5月5日丹波八上城支城の氷上城を落城させる。
【5月5日光秀攻落了丹波八上城支城冰上城】
6月2日丹波八上城の波多野秀治兄弟が降伏。
【6月2日丹波八上城的波多野秀治兄弟降伏(光秀)。】
7月軍を反転させて丹波宇津城を攻略。
【7月光秀大军转而攻落了丹波的宇津城】
8月9日丹波黒井城の赤井忠家が降伏。
【8月9日丹波黑井城的赤井忠家降伏(光秀)】
丹波横山城落城、福智山城として改築。
【(同时光秀攻落了)丹波的横山城,改建了福智(知)山城。】
10月24日丹波・丹後平定を安土城で信長に報告。
【10月24日(光秀)平定了丹波国与丹后国,去安土城向信长做了汇报。】
1580天正八年
閏3月13日坂本城を修築。
【闰3月13日光秀修筑了坂本城。】
8月丹波一国を拝領する。
【8月光秀拜领丹波一国(成为国主)。】
1581天正九年
6月明智家中軍法を制定する。
【1581年6月制定了《明智家中军法》(具体见后译)】