晋江文学城
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1、第1節 ものがたりの始点 ...

  •   焦る気持ちの中で「そういえば、あいつも方向音痴だったな」と不意に昔の恋人のことを思い出した。
      小さい頃二人で遊園地に行ったとき、少し目を離した隙に迷子になってしまったまだ幼かった少女の姿が脳裏を過ぎり、彼は笑みをこぼす。
      溢れかえる雑踏の中で一人、立ち止まってうつむいて泣いていた少女。ひとりぼっちになって海原の只中に取り残され、成す術も無くただ泣くばかり。むせび泣きながら彼を呼ぶ声は喧騒と足音とジェットコースターの音に呑まれて届かない。無視する大人。他人。届かなくても少女は呼び続ける。彼の名を。そして彼が彼女を見つけて手を握ってやると、少女は泣くのを止めて嬉しそうに微笑んだ。
      何もかもが懐かしい。あの頃は何気なく過ごしてきた平凡な日常も、今思い出せばどれもこれも輝いている。価値あるものは全部昔に置いてきてしまって、今あるものは過去の残りかすばかり。一度でいいからあの頃に戻りたい。そう考えたことがあるのは自分だけではないはず。そう彼は思う。
      ――これはもしや走馬灯という奴なのか。
      青年はそんな皮肉なことまで考えてしまった。
      そうすることによって切羽詰った気持ちにいくらから余裕が出来たにせよ、自分の置かれている状況は依然変わらない。一旦すべての思考を中断して頭の中をまっさらにし、改めて今の状況を分析する。
      左を見る。右を見る。後ろを見る。最後に正面。どの方面を見ても在るのは木と土と深い闇。緑と黒と茶色をキャンバスにぶちまけてかき混ぜたような汚い色合いの空間。視覚でとらえられるのはそれのみ。嗅覚で感じられるのはむせ返るような湿っぽい草木の生臭い臭い。聴覚で捕らえられるのは草を踏みしめる自分の足音だけ。鳥のさえずりさえも深い森に呑みこまれたのか、まったく聞こえてこなかった。
      目にするすべての景色がみな一様で、森が自分の中に足を踏み入れさせてから彼の方向感覚を狂わせるのにそう時間は掛からなかった。前後左右の概念などとうに意味を失い、自分がどこから来たのか、どちらに向かって進んで良いのかさっぱりわからなくなっていた。
      要するに、青年は迷子になっていた。
      ――不味いな。これじゃホントに遭難するかもしれないな。
      直感に任せて闇雲に歩いていた足を止める。
      空を仰ぐ。上天は競い合うように高く高く伸びた梢で蓋をされ、光は重なり合う葉に透けてわずかに差し込んでくるだけ。もっとも、時間はもう日の入りの時刻を過ぎているのでこのささやかな夕焼けの光が尽きるのも時間の問題であったが。
      側にあった細い幹に背を預け、地面にへたり込む。湿った土から水分が布の薄いスラックスに染んで不快な感触を与える。長い間、運動などろくにしていなかったせいで鉛でも入っているかのように足が重い。服の内側は汗でむれるほど熱を持っているというのに、手の指先は冬の外気に晒されてかじかんでいる。指の感触は麻痺し、拳を握ろうとしても指はほんのわずかにお辞儀するだけで、それ以上曲がろうとはしなかった。
      青年は行き当たりばったりの自分の性格を今日ほど恨んだ日はなかった。

      現時刻からおよそ二時間前、陽が沈む直前の光と闇が拮抗する不思議な光が地平線の空に現れる時刻、青年は蒼くて白い小さな光と出逢った。
      朝から長い間電車に揺られて、駅へ辿り着いたころにはとっぷりと日が暮れていた。
      首都圏からだいぶ離れた、山裾に位置する小さな田舎町。大抵、この時間帯は夕食の買い物客で賑わうはずなのに、アーケードに立ち並ぶ店はどこもシャッターが閉まっており、やけに閑散としていた。客はみんな隣町に出来た大型量販店に奪われ、この町自体も来月には隣町と合併する予定になっている。間もなくこの町の名前は跡形もなく消え、やがて人々に忘れ去られる運命にあった。
      だが、そんなことは青年には関係ない。青年はある目的を果たすためにここへやってきただけに過ぎず、目的を果たせばこの町を去り、もう二度と訪れることはないだろう。そして他の人々と同様、日々の記憶の中にこの町の名は埋もれて忘れられる。
      今日はもう遅いと、予約してあったホテルに向かう帰途、通りかかった公園の中央に小さな光の球が浮遊していた。
      ――なんだろう。
      興味を持った青年は近寄って目を凝らすと、それが青白く発光する蝶々だということがわかった。
      薄暗がりの中で淡く光を放って羽ばたくそれはとても儚げで、故に美しく、彼がその蝶に触れようと手を差し伸べると、蝶はひらりとそれをかわし、いずこかへとひらひら飛び去ってしまった。光輝く燐粉の軌跡は瞬く間に消えうせ、残ったのは青年の一抹の心残りと徐々に膨れ上がる好奇心だった。
      青年は二つの選択肢を選ばされた。このままホテルに向かうか、もしくは蝶を追うか。
      ――もしかしたらあれは、俺の探していたものなのかもしれない。
      青年は蝶の行方を追った。妖しげな光に魅せられたのか、その蝶の正体と行方が気になって仕方がなかった。蝶の後を追って、行き着く先を調べれば何かあるのではないか。漠然とした期待に駆られた彼は蝶の後を追った。藪を掻き分け、小さな光を見失わないよう必死になって追跡した。どれだけの時間追ったのかはわからない。公園の裏手に出て人気のない山を突き進み、そうしているうちに半分だけ顔を覗かせていた夕日はとうとう沈んでしまったのだった。気がつくと、青年は見知らぬ山の森の中に迷い込んでいた。そして現在に至る。

      青年は後悔した。どうしてこんなところまできてしまったのだろうかと。
      一旦腰を下ろして冷静になってしまうと、溜まっていた疲労がどっと押し寄せてきてもはや立ち上がることさえ出来なくなっていた。このままここにいたってどうしようもない。立ち上がらなければここで凍死してしまう。だが、そんなことを考えることすら億劫になるほど青年は疲労困憊しきっていた。
      熱いのに寒い。視界が映りの悪いテレビみたいに砂嵐が掛かっている。意識が遠退く。
      ――ま、いいよな。
      このまま死んでしまっても構わないと青年は思った。今の生活の中で特に思い残すことも、生き延びてまで大切にしたいものなど彼にはない。むしろ、彼が大切にしていたものは死したその先に待っている。彼をこの世に繋ぎとめられるほどのものはこの世になかった。もしかしたら自分は無意識の内に死に場所を探してここまできたのかもしれないとさえ思えてきた。生きようとする意志よりも死んでも良いという意志の方が勝っていた。
      現実に抗うのを止め、力を抜いて大地に伏せる。もう何もしなくても良いのだという、死を運ぶ者が目の前に降り立ったとき誰しも感じる一種の安らぎを感じた。
      彼が生きるためのすべてを諦めたそのとき、不意に足音が聞こえてきた。
      四本分の足音。動物か、それとも人か。
      ぐしっ、ぐしっと湿った土を踏む音が段々近づいてくる。それが子守唄のようで、自然と青年のまぶたが重力に逆らえず重くなってゆく。
      目を閉じてとうとう意識が□□から離脱しようとしたのと同時に、足音の主が青年の前で止まった。

      第一節 ものがたりの始点

      次に青年が目を醒まして最初に目にしたのは木目調の古びた天井だった。
      首を傾けると、天井の隅に小さな蜘蛛の巣が張ってあるのを見つける。更に傾けて視線が畳の床と平行になると、目の前に仏壇があった。誰かの写真が立てかけてある。視界は未だ安定せず、顔はわからない。その隣でバスケットボールほどの大きさの招き猫が尊大な顔をして鎮座していた。
      九畳ほどの和室に青年は寝かされていた。羽毛ではなく綿の布団らしく、体が圧迫されて寝苦しい。布団を跳ね除けて体を起こし縁側に目をやると、土がむき出しの何も無いちっぽけな庭と木で組まれた垣根の向こうに水が抜かれ、干上がった田んぼが幾つも広がっていた。他に民家は見当たらず、何にも遮られず山々が景色の最奥に連なっているのを拝める。
      一般的な田舎の光景。どこだかわからないが今のところ、ここはそう呼ぶに相応しかった。
      周囲の観察をひとまず終え、次に自分がどうしてここにいるのか考える。記憶をたどれるところまでたどる。まず、自分はとある目的があって訪れた町で幻想的な光を纏った蝶を見つけた。そしてそれを追っていくうちに森の深部まで踏み入ってしまい、道に迷ってそのまま力尽きて……そこから先の記憶は途切れ、大きく飛んで現在。
      「それにしても、田舎臭い場所だな……」
      「せっかく助けてやったというのに田舎臭いとはご挨拶だな」
      独り言のつもりが思いがけず返答がきて、青年は咄嗟に声のするほうを振り返った。
      開け放たれた襖の前に小柄な老婆がいた。紺のどてらで身を包み、唯一外から窺える手と顔の肌には深い皺が刻まれている。後ろにまとめて束ねられた髪は一本残らず脱色しており、青年より遥かに長い年月を生きてきたのが容易にわかる。それでも腰は曲がっておらずしっかりと垂直で立ち、深い皺の奥に隠れた双眸を凝らして青年をねめつけていた。
      「あんたが助けてくれたのか」
      「最近の若者は口の利き方を知らんのか。まぁいい、丁度夕飯の準備が出来たところだ。起きれるならとっとと居間に来るがいい」
      青年の問いかけには答えず、そうぶっきらぼうに言い放った老婆は踵を返して青年の前から早々立ち去った。
      色々問いただしたいことがあったのだが、どこからともなく漂ってくる匂いに眠っていた空腹が刺激され、青年も布団から這い出て、足元をふらつかせながらも食欲をそそる匂いのするほうへ向かった。

      茶の間の真ん中に居座る掘りごたつ。その上にはガスコンロが置かれ、更にその上には肉や野菜がぐつぐつと煮えたぎっている土鍋。部屋の隅には年代物のテレビに、中心でオレンジ色の火がちりちり揺らめく円筒型の石油式ストーブ。天井には木で組まれた傘で覆われた蛍光灯。軒先には入居者の去ったツバメの巣。先ほどの景色と同様、どことなく昭和初期の日本家屋を思い起こす光景だった。
      遠慮なくコタツに潜らせてもらうと、テーブルには箸と皿が三組並べられていた。一つは他の漆塗りの箸と違って可愛らしい花の模様があしらわれているプラスチックの箸で、一目で女の子が使うものだと見て取れる。
      ――あの婆さんの他に家族がいるのか。
      そんなことを詮索していると、がらがらと玄関の引き戸が開く音と共に元気な女の子の声が家に響き渡った。
      「ただいま!」
      どかどかと廊下を駆ける足音が居間の戸の前で止んでひと間の後、勢いよく戸が開け放たれた。
      「おばあちゃんおなか空いたぁ。ご飯ま」
      台詞の途中で青年と目が合った少女は「あっ」と声を詰まらせ、青年もぎょっと目を丸くして後ろに仰け反った。
      互いが互いの存在に驚いて目をしばたたかせている。
      中学生だろうか、学生服を着た長い黒髪の少女は前かがみになってじっと青年のことを観察している。警戒しているというよりも、見たことの無いエサを目の前にして鼻をひくつかせる子犬のような仕草。青年は自らに興味を示す少女にどう対応して良いのかわからず、とりあえず「よぉ」と控えめに片手を上げて挨拶をしてみた。
      わずかな逡巡の後、少女も人懐っこい笑みで「こんにちは」と元気に挨拶を返した。
      少女の声を聞きつけた老婆がのれんをくぐって台所から顔だけを覗かせる。
      「ましろかい。寒かったろ、早くこたつに入りなさい」
      「うん」
      「さぁ、三人揃ったことだし夕食にしようかね」
      少女は靴下を脱いで部屋の隅に放り投げ、コタツに潜って花の模様の箸を手に取った。

      青年の左手には老婆、正面には先ほどの少女、そして右手にはこの家の飼い猫が皿に首を突っ込んで、白菜やらシメジやらしらたきやらをがつがつ貪っていた。しっかりと座布団の上に座って人間気取りである。真っ黒の体毛に覆われ、むき出しの丸い目だけが異様なほど黄色い光を宿らせている。青年が彼を観察していると、猫はこちらを向いて「何見てんだよ」と言いたげに睨み返してきた。
      最初の「いただきます」から数分、三人と一匹は終始無言で黙々と食事にありついていた。それがこの家のスタイルなのだろう青年も二人と一匹に倣って黙っていたが、少女は無言の晩餐が気まずいのか、そわそわと視線をあちこちにさ迷わせながら鍋をつついている。鍋に箸を伸ばした拍子に青年と目が合うと、慌てて視線を下に逸らす。先ほどからずっとその繰り返しだった。少なくとも、少女はこの空気をあまり歓迎している風には見えなかった。
      居心地の悪さに耐えかねた青年が口を開こうとしたそのとき、少女が「うん」とひとり頷いて、意を決した面持ちで青年に話しかけた。
      「わたしの名前はましろ。琉璃ましろっていいます」
      淀みなく、毅然とした口調で自らの名を名乗った。
      ――るり、ましろ。
      どこか神話めいた、涼しげな響きのするその名を心の中で反芻する。
      似合っている。それが一番初めの感想だった。
      透き通った絹の肌に、宝石に負けない輝きを持つ二つの瞳。まさしくその少女を表すのに相応しい名前だった。
      「変、ですか?」
      青年の反応が無く、不安げな表情に一転する。
      「あっ、いや、珍しい苗字と名前だなって思っただけだ。全然変じゃねえよ」
      「よかった。実はこの苗字と名前、結構気に入ってるんです」
      にこりと控えめに、けれどさりげなく自慢げに微笑む。猫が「にゃあ」と間延びした声で鳴く。それを合図に気まずい雰囲気が一掃され、一家に団欒が戻ってきた。
      「俺は笹原まさら。ばあさんの話じゃお前が俺を助けてくれたんだってな。助かったぜ」
      真正面からお礼を言われてましろは恥ずかしくなったのか、頬を赤らめながら「そんなことないですよ」と首と両手を振って謙遜する。
      「わたしはたまたま山へ入ったとき、笹原さんが倒れていたのを見つけただけで、笹原さんを村まで運んでくれたのは穂村さんで……あっ、穂村さんっていうのはこの村の大工さんで……ってなんだか話が逸れちゃいましたね。え、ええと、何の話でしたっけ」
      緊張したときの癖なのか、ましろは両手を前に組んでもぞもぞと動かしながらしどろもどろ話す。初見では人見知りしなさそうな印象だったが、どうやらそうでもないらしい。わずかな違和感を覚えつつも、わざわざ詮索するまでもないと早々に考えるのを止め、鍋で煮えている白滝をひとつ箸でつまんで口に放った。
      「笹原まさらさん、か」
      少女は彼と同じようにその名を口ずさむ。愛しいものを抱きしめるような、穏やかな口調で。
      「歳はいくつですか? お仕事とかしています?」
      「歳は二十一、大学生だ。っていっても、最近あんまり顔出してないけど」
      「大学生ですか! すごいですね」
      やたら大げさにましろが感心するせいで、まさらは恐縮してしまう。
      「別にすごくもなんともねえよ。今日び大学なんて大抵の奴が入るだろうし、俺の大学だってそんないいところじゃないしな」
      「そんなことないですよ。高校とか大学って試験に合格したら入れるんですよね。やっぱりすごいです」
      わたし、勉強さっぱりですから。
      両手を股の間に挟んでしょんぼりとうな垂れ、上目遣いになる。
      大方の人間は特に理由も無く高校、それから大学へ進学してから社会に出る。それが今の日本社会の風習だから仕方が無いといえば仕方が無い。大真面目に勉学に励む人間なんて五割満たしてるかどうかさえ怪しい。大体は勉強よりも友達付き合いの方が割合を占めているはず。だから大学に入っていることくらいでそこまで驚かれて羨望の眼差しを向けられ、まさらは嬉しいような申し訳ないような複雑な気分になっていた。
      「それはそうと、ここは一体どこなんだ。どうやら白山町じゃないみたいだし」
      「そうですね。ずっと寝てましたからわかりませんよね。ここは『真白村』っていって、ふもとの白山町から山を一つ越えた先の盆地にある村なんです」
      ましろむら……真白村。
      記憶にあったフレーズと合致し、まさらは目を見開いた。
      「笹原さんは白山町からいらっしゃったんですか?」
      「ちょっと用事があってな。ってことは、俺は歩いて山を一つ越えたっていうのか」
      「えっと、そうみたいですね」
      自分でさえ気づかぬうちに山を一つ越えたのを知ったまさらは驚きを隠せなかった。どうりで体中筋肉痛になっているわけだ。両脚はまだ走ることもままならないほど重く不安定で、まるで自分の脚ではないプラスチックで出来た義足をはかされているかのような感覚がまだ残っている。普段まともに体を動かしてないのに加えて、山を登って下りればくたくたになって気絶するのも無理はない。
      「どこか痛いところとかありませんか?」
      「今のところ五体満足みたいだ」
      肩を回して首を捻り、自分の体が正常に機能しているのを証明する。ましろはほっと胸をなでおろして、
      「ホントに助かってよかったですね。今の時期、森に入る人なんて滅多にいませんから、たぶん笹原さん、わたしがこなかったらのたれ死んでましたよ」
      と、縁起でもないことをおどけた調子で言った。
      「まぁ、別に死んだところで悔いはないけどな」
      「はい?」
      ぽつりと呟いた言葉が聞き取れず、ましろが聞き返しても「なんでもねえよ。独り言だ」と、まさらはそっぽを向いた。無意識の内にそんなことを呟いてしまい、舌打ちする。
      「さて、と」
      二人の話に区切りがついたところで琉璃婆――村の人たちはこの村の村長であるこの老婆をそう呼ぶらしい――は拍子木を鳴らして舞台を締めくくるように、ぴしっ、と箸をテーブルに置いた。
      「お前さん、まさらと言ったかね。どうしてあの森へ入ったのか、理由を聞かせてもらおうか」
      「どうしてって……別に理由なんてねえよ」
      「馬鹿を言え。理由もなく森に入る奴がいるか」
      言いづらそうに口ごもるまさらをぎろりと睨む。冬の森が危険とはいえ、どうして森に入ったくらいでそんな強い声色で問いただされなければならないのか理解できず、彼は戸惑う。
      「あの森は広く深く、暗闇と湿気に育てられた木々は人を出口無き迷路へといざなう。一度迷ってしまったが最後、二度とそこから抜け出すことはできん。だからふもとの町やこの村の住人であっても、無用に深く踏み入るのを禁じておる」
      普段、村人たちは真白村の外にある森に出入りするのを固く禁じられている。理由は琉璃婆の言ったとおり、森は深く迷いやすく、毎年森に入ったまま行方不明になる人間が何人か出るが、それでも森に踏み入れる者は後を絶たない。ましろも昨日、琉璃婆の言いつけを守らず森にこっそり忍び入り、まさらを連れ帰った後散々説教されたのだった。
      「そ、そんなこと知るかよ。俺は昨日、初めて白山町に来たんだからな」
      「じゃあ、どうして森に入ったんですか?」
      「どうだっていいだろ、んなこと」
      「助けてもらった恩人に関係ないなどと言うかね、お前は」
      「大体、なんでそこまでして理由を聞きたがるんだよ……」
      琉璃婆の油断なき視線はまさらを捉え、睨みつける眼光を決して緩めようとはしない。
      琉璃婆がまさらを訝しむのも無理ない。禁忌とされる森で倒れており、森に踏み入った理由を語るのをかたくなに拒んでいる、名前の他に素性の知れない男を信用しろというほうが無理というものだ。
      二人の視線に耐えかねたまさらはふっと目を逸らすと、隣にいたのは猫と目が合う。食事を終えて口の周りの毛が肌に張り付いており、どうしようもなく不細工な顔になっていた。猫は呑気なあくびをひとつすると、そのままコタツの裾に包まって眠りについた。
      「あぁもう、わかったよ。言えばいいんだろ。俺はこの村の噂を聞いてここにきたんだよ」
      観念した様子で、声のトーンを落として疲れたように呟く。
      「噂……」
      「ですか?」
      ぴくり。
      琉璃婆の眉が釣りあがる。
      「ああ。白山町の近くに『どんなに遠く離れていても会いたい人に会える』って言い伝えのある『真白村』の噂をな。本当かどうかしらねえけど。それで途中で変な光る蝶々を見つけて追ってたらいつの間にか森に迷い込んでたんだよ。それだけだ」
      説明していて自分でもだいぶ支離滅裂な話だと恥ずかしくなる。会いたい人に会えるだとか、光る蝶々だとか、子供の作り話じゃあるまいし、と。こんな眉唾ものの話を鵜呑みにするなんて馬鹿らしい、と今になって思った。
      居たたまれなくなったまさらは足早に席を立つ。
      「詳しい話はまた明日でいいだろ。眠いから先に眠らせてもらうぞ。ごちそうさん」
      「まだ話は終わっておらんぞ」
      「笹原さん、これからどうするんですか?」
      「さぁな。明日にでも考えるよ。布団借りるからな」
      まさらは逃げるように居間から去っていった。
      琉璃婆は「ふん、あつかましいにも程があるな」と苛ついた調子で鼻息をし、「まったく、お前も難儀な男を拾ってきたものだな」とぶつぶつ文句を言いながら山菜のゴマ和えを口に入れていた。ましろは苦笑を漏らしつつ、寝間へ向かう青年の背中を見つめていた。
      『花が盛るように月が輝く刻、大切な人に逢うことができる。たとえどれだけ離れていようとも』
      あの人もその伝説を信じてここまでやってきたんだ。
      そんなことを考えながら。

      綿の布団は相変わらず重く、寝心地が悪くてなかなか寝付けない。そのうえ羽毛布団より保温性があるわけでもなく、冬の夜の冷えた外気が布団の隙間から侵入してきて安眠を妨害する。まさらは布団を顔の半分あたりまで引っ張ってきて、寝返りを打って「いい加減寝よう」と口に出して言い聞かせ、目を閉じた。
      一度は死を受け入れかけたものの、結局まさらは目的の場所『真白村』にたどり着いた。もしかしたらあの光る蝶は俺を導いてくれたのだろうか、と今になって考える。
      ――ここなら、俺の探していた人に逢えるかも知れない。
      目を閉じて訪れた闇の中にその人の姿を思い描く。いつまでも色あせることのないその姿は、いつも自分に笑顔を見せてくれていた。彼女が優しかったからではない。まさらがそれしか知らないだけだった。彼女はいつも自分の本心を押し隠し、まさらを不安にさせまいと常に明るく気丈に振舞ってくれていた。まさらはそんな彼女に甘え、表面上だけの恋人関係をこなし、本心を知ろうとしなかった。
      自分のもとからいなくなってようやく知ったのだ。その人がいかに自分にとって大切な人であったのかを。その人がいかに自分を大切にしてくれていたのかを。いかに自分がその人に依存したのかを。あんなに優しくしてくれたのに、自分は気恥ずかしくて何もしてやれなかった。だから自分のもとから去ってしまったのだと、まさらは今更になって思い知ったのだった。
      「もっとやさしくしてやればよかったな」
      誰に向けたのでもないささやきが天井に吸収されてゆく。
      過ぎてしまった、楽しかった日々を思い返す。あの頃はその幸福が当たり前だと思っていたずらに過ごしてきた日常が、今ではいくら手を伸ばしても届かないほど遠退いてしまった。
      小学校までの道のりをかけっこした思い出。中学校の運動会で彼女が応援してくれた思い出。高校からの帰り、彼女を誘って二人でこっそりハンバーガーを食べに行った思い出。思い出の中で時が流れていくにつれ、彼女は笑うことしかしなくなる。
      会いたい。たったひとつでも手段があるのなら、どんな犠牲を払ってでもまた彼女に会いたい。一度でも良い。会って、謝ろう。その謝罪が自分を慰めるだけの自己満足なものでしかないと罵られても構わない。彼女に会えるのならたとえどんなに嫌われてしまってもよかった。謝ることも何もしないまま、ただ雪が解けるように音もなく関係が終わるのだけは嫌だった。
      「笹原さん、もう寝ちゃいました?」
      襖がそっと開かれ、ささやかれる少女の声。
      差し込んできた長方形の光がまさらの体をまたぐ。片目を薄く開けると、わずかに開かれた襖の隙間からましろが顔を覗かせていた。逆光でそのシルエットだけが映り表情が黒く塗りつぶされている。
      しばらく返事を待っていてまさらが寝ているのだとわかると、ましろはなるべく光を入れないよう、体を縦にして襖の隙間からそっと部屋に入り、まさらの寝ている前を横切って雨戸を閉めた。立て付けが悪いらしく、雨戸はがたがたと大きな音を立てながらスライドする。これじゃ忍び足でやってきた意味がないんじゃないか、とまさらは寝た振りをしながらましろの動きを耳で追う。
      「おばあちゃんはああ言ってますけど、好きなだけこの家に泊まっていてくださいね。それじゃ、おやすみなさい」
      それを最後に部屋から去ると思いきや、彼の寝ている前で立ち尽くして動かない。何かに逡巡している様子で、「えっと」と口ごもりながら、動悸を抑えようと胸に手を当てている。そんな仕草がしばらく続いた後、ましろは言った。
      「そのかわり……明日になったら外の町のお話とか聞かせてください。わたし、あんまり村の外に出たことないんで……なんて、寝ている間に図々しいこと言ってみたり」
      一人ごちて苦笑する。そして寝ている彼にぺこりと頭を下げて部屋を後にした。
      まさらは目を開ける。目に映ったのは丁度寝間から出て行こうとするましろのか細い足。襖がぱたりと閉まると、隣から差し込んでいた長細い光が断たれ、寝間に暗闇が舞い戻った。

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